●富山城
天文十二年(1543)越中守守護代神保氏が重臣水越勝重に命じ築城させたといわれる。その後神保長職・上杉謙信等の攻防の拠点となった。天正九年(1581)に入城した佐々成政が豊臣秀吉に敗れたのち、天正十八年(1590)頃に加賀前田家の持城となる。
寛永十六年(1639)加賀藩三代藩主前田利常の次男利次は、十万石を分与され富山城に入城、初代富山藩主となり、以後232年富山藩主前田家十三代の居城であった。
廃藩置県後、城の建物は徐々に解体され、堀は埋め立てられていった。残った旧城内には県庁等の公共建物が建ち並んでいたが、再三の大火や富山大空襲にて灰燼に帰した。
現在の富山城は、昭和二十九年(1954)の富山産業大博覧会に際して、旧鉄御門石垣上に建設されたものであり、郷土博物館としてその歴史を伝えている。
【案内板より】
●姫路城
姫路城は今から約670年前、元弘3年(1333)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が護良親王の北条討伐の令に応じて兵をあげ、姫山に砦を築き、円心の子貞範が正平元年(1346)に館を設けたのがその始まりと言われていましたが、その後の研究で、黒田官兵衛孝高の祖父と父である黒田重隆と職隆が主君小寺政職の許しを得て天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間に御着城の出城として築いたという説も見直されています。
そして天正8年(1580)約420年前、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、西国支配の根拠地として3層天守を築きました。
関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)約400年まえ、徳川家康の娘婿で、世に「西国の将軍」といわれた池田三左衛門輝政が、その豊かな財力と徳川幕府を背景に8年の歳月をかけ5層7階の大天守(現在の姿)を持つ大城郭を築きました。
更に10年後、本多忠政が、その子忠刻の奥方に千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、元和四年(1618)今日の全容を持つ姫路城が完成したそうです。