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	<title>お城めぐり</title>
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	<description>お城の歴史につて</description>
	<pubDate>Wed, 25 Jun 2008 04:28:43 -0500</pubDate>
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		<title>●松本城</title>
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		<pubDate>Wed, 25 Jun 2008 13:25:36 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[国宝]]></category>

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		<description><![CDATA[松本城は前身を深志城といいました。
この地方に権勢を張っていた小笠原氏の臣、島立貞永が、戦国時代の永正元年（１５０４年）、
豪族板西（ばんざい）氏の敷地に創建したと伝えられています。
後に３２年間、武田信玄の進出拠点となりましたが武田氏の没落後は、父祖の地を継いだ
小笠原貞慶が松本城と改称しました。
豊臣秀吉に８万石の城主に任ぜられた石川数正が五層六階の天守閣を
文禄年間（1592～95）に着工し、
慶長２年（1597）頃、数正の子の康長が完成させました。
徳川幕府下では城主が六度入れ替わりましたが、五番目の水野氏は年貢の
取立てが厳しく、三代忠直のとき「加助騒動」と呼ばれる農民の反対デモを誘発しました。
だまして帰した農民の代表だった多田加助以下２８人を打ち首の極刑に処しました。
その処刑に際して地震が起こり城が傾いたと言う伝説も残っています。
加助らを祀る城山からは約４５年ほど前に数人の人骨が発見されました。
江戸中期には火災のため本丸など失い、明治５年には天守や門などが競売されかけましたが、
地元の有識者の努力により天守だけは保存される事になりました。
年中無休で８：３０～１６：３０まで営業しています。
料金は高校生以上６００円、小・中学生は３００円です。
ＪＲ篠ノ井線松本駅から徒歩１５分です。
現存する貴重な天守閣を、ぜひその目で鑑賞してみませんか？
天守閣からの眺めも◎ですよ！
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		<title>●犬山城</title>
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		<pubDate>Wed, 16 Apr 2008 10:16:43 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[国宝]]></category>

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		<description><![CDATA[この城は、天文６年（１５３７年）現在の位置に天守閣が造営され、織田信長の叔父に当たる織田与次郎信康が城主となった。信康は、天文１６年（１５４７年）斎藤道三を岐阜の稲葉山城に攻めたとき、戦死したので、その子織田十郎左衛門信清が城主となった。
　その後、何代か城主がかわり文禄４年（１５９５年）石川備前守光吉が城主となった。天正１２年（１５８４年）３月小牧、長久手の合戦の際、豊臣秀吉は大阪より１２万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を布いた徳川家康と対戦した。元和４年（１６１８年）成瀬隼人正正成が城主となり以後成瀬家の子孫が継いだ。
　明治４年９代目正肥のとき廃藩置県により廃城となり、天守と櫓を除く外は、ほとんど取り壊された。明治２４年濃尾震災で天守の東南の付櫓と西北の付櫓、石落としの間などが壊れ、二階も大破した。明治２８年城を修理するという条件で、旧犬山藩主正肥に譲り渡され、成瀬家の私有となり現在に至っている。国宝の城で、個人の所有というのは、この城が唯一のものである。
 　昭和２年１１月２０日、昭和天皇が登閣された。昭和２７年３月２９日規制改正にともない、国宝に再指定された。
　全国で国宝に指定されている城は、犬山城のほか、姫路、松本、彦根の４つでその中でも、犬山城は最古である。
　なお、この城は、伊勢湾台風などで破損がひどくなり、去る昭和３６年４月から総工費約６千万円で、石垣のつみ直しと天守の解体修理が行われ、昭和４０年３月２０日往年の姿に復元された。
【案内板より】
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		<title>●彦根城</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Apr 2008 10:11:20 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[国宝]]></category>

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		<description><![CDATA[この彦根城は、慶長５年（１６００年）井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長６年（１６０１年）上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長８年（１６０３年）その子直継が父直政の遺志を受けて彦根城の築城に着手した。
時の将軍家康は特に奉行を差し向け７ヶ国１２大名にも応援させ、元和８年（１６２２年）現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に２０年の年月を要したもので、城地面積約０．２５Km2 (７５，８００余坪）周囲約４㎞（１里）高さ約５０メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和２６年（１９５１年）に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同２７年（１９５２年）には天守閣を国宝に、同３１年（１９５６年）には彦根城一帯を特別史跡に、同３８年（１９６３年）に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
【案内板より】
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		<title>●駿府城</title>
		<link>http://www.ujima.org/archives/6</link>
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		<pubDate>Thu, 10 Apr 2008 10:10:40 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[今から約６５０年昔の室町時代、今川範国のりくにが駿河守護職するがしゅごしょくに任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。
９代義元よしもとの今川氏全盛の頃、徳川家康は７歳から１８歳までの間、人質として駿府に暮らしました。
永禄３年（１５６０）今川義元が桶狭間おけはざまで織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄１１年（１５６８）武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正１０年（１５８２）に追放した後、同１３年（１５８５）には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。
しかし徳川家康は、天正１８年（１５９０）豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏なかむらかずうじが駿府城の城主になりました。
その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長８年（１６０３）に征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じられ江戸幕府を開きます。
慶長１０年（１６０５）に将軍職を息子秀忠ひでただに譲り、同１２年（１６０７）には大御所として三たび駿府に入りました。
この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。
城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪くるわを内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式りんかくしきの縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請てんかふしん」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
【案内板より】
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		<title>●岐阜城</title>
		<link>http://www.ujima.org/archives/5</link>
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		<pubDate>Mon, 07 Apr 2008 10:06:42 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[岐阜城は、かつて、稲葉山城と称していました。
金華山頂に最初城を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政で、戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。
特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄１０年（１５６７年）（一説に永禄７年）８月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井の口」を岐阜と改め大胆な構想のもとに善政を施し、天下統一の策源地としてからでした。
しかし、慶長５年（１６００年）９月、関ヶ原の合戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入れられ、激戦の末落城しました。
翌慶長６年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。
【パンフレットより】
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		<title>●小田原城</title>
		<link>http://www.ujima.org/archives/4</link>
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		<pubDate>Sat, 05 Apr 2008 10:05:20 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展した。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名大久保氏が城主となり、江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されたが、稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わった。
次いで大久保氏が再び城主となり、東海道をおさえ箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至った。
小田原城は明治３年に廃城の方針がだされ、城内の主な建物は解体された。
城址は国の史跡に指定され「城址公園」として、現在も様々な整備が続けられている。
【パンフレットより】
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		<title>●名古屋城</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Apr 2008 10:04:01 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長十四年（１６０９）江戸幕府の東海道の要所として、また、大坂（大阪）方への備えとして、清須（現清洲町）から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正・福島正則・前田利光等北国・西国の諸大名２０名に普請を命じ、天守閣や諸櫓の作事は、慶長十七年（１６１２）にほぼ完成した代表的な平城です。その後、明治維新をむかえるまで名古屋城は、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
第二次世界大戦中の昭和二十年（１９４５）５月、名古屋空襲の際、大・小天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどを焼失しましたが、幸いにも焼失をまぬがれた三つの櫓（西北・西南・東南）、三つの門（表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門）と本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。
【案内板より】
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		<title>●熊本城（銀杏城）</title>
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		<pubDate>Mon, 31 Mar 2008 10:14:21 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[日本三大名城の一つ熊本城は別名銀杏城とも呼ばれ名将加藤清正によって、慶長６年（１６０１年）に着工され、７年の歳月をかけ築城されました。
城郭の広さは約９８万㎡、周囲９km（築城当時）、そのなかに天守３、櫓４９、櫓門１８、城門２９を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。
熊本城は豊臣秀吉の九州統一により、その家臣加藤清正が熊本統治の拠点として築城したもので、城下町の整備や優れた治山、治水、産業の振興など、今日の熊本の基礎を築きました。
しかし加藤家の治世は徳川の忌避にふれ２代４４年しか続きませんでした。
その後豊前小倉城より細川忠利が封じられ、明治４年（１８７１年）まで１１代２３９年の間細川家の居城として続きました。
明治１０年（１８７７年）西南の役に際しては、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に５０日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しましたが、惜しいことに薩摩軍の総攻撃の前日に原因不明の失火により宇土櫓他１２棟を残し焼失しました。
【パンフレットより】
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		<item>
		<title>●元離宮二条城</title>
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		<pubDate>Sat, 29 Mar 2008 10:13:44 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[慶長７年（１６０２）、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年３月に完成した。
京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。
家康の征夷大将軍せいいたいしょうぐんの拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。
その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永３年（１６２６）、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。
しかし、寛延３年（１７５０）、雷火のため天守閣を焼失、また、天明８年（１７８８）には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓やぐらの多くを焼失した。
文久３年（１８６３）、十四代将軍家茂が入城、攘夷じょういの実行を誓い、また、慶応３年（１８６７）には、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
明治４年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治１７年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治２６、７年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。
昭和１４年（１９３９）、京都市の所有に移り、史跡に指定された。
城構は、平城ひらじろで、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅１３ｍないし１７ｍの濠ほりをめぐらし、東西約４８０ｍ、南北３６０ｍあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所おきよどころ・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。
【案内板より】
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		<item>
		<title>●墨俣城（墨俣一夜城）</title>
		<link>http://www.ujima.org/archives/8</link>
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		<pubDate>Thu, 27 Mar 2008 10:11:08 -0500</pubDate>
		<dc:creator>ojousan@</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[永禄９年、木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられている、藤吉郎が「天下人」となる出発点。
当時は砦的な城であったが、平成３年に城郭天守の資料館が建てられている。
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