Currently browsing posts found in 3月2008
●熊本城(銀杏城)
Comments Off日本三大名城の一つ熊本城は別名銀杏城とも呼ばれ名将加藤清正によって、慶長6年(1601年)に着工され、7年の歳月をかけ築城されました。
城郭の広さは約98万㎡、周囲9km(築城当時)、そのなかに天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。
熊本城は豊臣秀吉の九州統一により、その家臣加藤清正が熊本統治の拠点として築城したもので、城下町の整備や優れた治山、治水、産業の振興など、今日の熊本の基礎を築きました。
しかし加藤家の治世は徳川の忌避にふれ2代44年しか続きませんでした。
その後豊前小倉城より細川忠利が封じられ、明治4年(1871年)まで11代239年の間細川家の居城として続きました。
明治10年(1877年)西南の役に際しては、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しましたが、惜しいことに薩摩軍の総攻撃の前日に原因不明の失火により宇土櫓他12棟を残し焼失しました。
【パンフレットより】
●元離宮二条城
Comments Off慶長7年(1602)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。
京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。
家康の征夷大将軍せいいたいしょうぐんの拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。
その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。
しかし、寛延3年(1750)、雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓やぐらの多くを焼失した。
文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城、攘夷じょういの実行を誓い、また、慶応3年(1867)には、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、7年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。
昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。
城構は、平城ひらじろで、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの濠ほりをめぐらし、東西約480m、南北360mあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所おきよどころ・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。
【案内板より】
●墨俣城(墨俣一夜城)
Comments Off永禄9年、木下藤吉郎が一夜にして築いたと伝えられている、藤吉郎が「天下人」となる出発点。
当時は砦的な城であったが、平成3年に城郭天守の資料館が建てられている。
●富山城
Comments Off天文十二年(1543)越中守守護代神保氏が重臣水越勝重に命じ築城させたといわれる。その後神保長職・上杉謙信等の攻防の拠点となった。天正九年(1581)に入城した佐々成政が豊臣秀吉に敗れたのち、天正十八年(1590)頃に加賀前田家の持城となる。
寛永十六年(1639)加賀藩三代藩主前田利常の次男利次は、十万石を分与され富山城に入城、初代富山藩主となり、以後232年富山藩主前田家十三代の居城であった。
廃藩置県後、城の建物は徐々に解体され、堀は埋め立てられていった。残った旧城内には県庁等の公共建物が建ち並んでいたが、再三の大火や富山大空襲にて灰燼に帰した。
現在の富山城は、昭和二十九年(1954)の富山産業大博覧会に際して、旧鉄御門石垣上に建設されたものであり、郷土博物館としてその歴史を伝えている。
【案内板より】
●姫路城
Comments Off姫路城は今から約670年前、元弘3年(1333)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が護良親王の北条討伐の令に応じて兵をあげ、姫山に砦を築き、円心の子貞範が正平元年(1346)に館を設けたのがその始まりと言われていましたが、その後の研究で、黒田官兵衛孝高の祖父と父である黒田重隆と職隆が主君小寺政職の許しを得て天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間に御着城の出城として築いたという説も見直されています。
そして天正8年(1580)約420年前、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、西国支配の根拠地として3層天守を築きました。
関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)約400年まえ、徳川家康の娘婿で、世に「西国の将軍」といわれた池田三左衛門輝政が、その豊かな財力と徳川幕府を背景に8年の歳月をかけ5層7階の大天守(現在の姿)を持つ大城郭を築きました。
更に10年後、本多忠政が、その子忠刻の奥方に千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、元和四年(1618)今日の全容を持つ姫路城が完成したそうです。