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●松本城
Comments Off松本城は前身を深志城といいました。
この地方に権勢を張っていた小笠原氏の臣、島立貞永が、戦国時代の永正元年(1504年)、
豪族板西(ばんざい)氏の敷地に創建したと伝えられています。
後に32年間、武田信玄の進出拠点となりましたが武田氏の没落後は、父祖の地を継いだ
小笠原貞慶が松本城と改称しました。
豊臣秀吉に8万石の城主に任ぜられた石川数正が五層六階の天守閣を
文禄年間(1592~95)に着工し、
慶長2年(1597)頃、数正の子の康長が完成させました。
徳川幕府下では城主が六度入れ替わりましたが、五番目の水野氏は年貢の
取立てが厳しく、三代忠直のとき「加助騒動」と呼ばれる農民の反対デモを誘発しました。
だまして帰した農民の代表だった多田加助以下28人を打ち首の極刑に処しました。
その処刑に際して地震が起こり城が傾いたと言う伝説も残っています。
加助らを祀る城山からは約45年ほど前に数人の人骨が発見されました。
江戸中期には火災のため本丸など失い、明治5年には天守や門などが競売されかけましたが、
地元の有識者の努力により天守だけは保存される事になりました。
年中無休で8:30~16:30まで営業しています。
料金は高校生以上600円、小・中学生は300円です。
JR篠ノ井線松本駅から徒歩15分です。
現存する貴重な天守閣を、ぜひその目で鑑賞してみませんか?
天守閣からの眺めも◎ですよ!
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●犬山城
Comments Offこの城は、天文6年(1537年)現在の位置に天守閣が造営され、織田信長の叔父に当たる織田与次郎信康が城主となった。信康は、天文16年(1547年)斎藤道三を岐阜の稲葉山城に攻めたとき、戦死したので、その子織田十郎左衛門信清が城主となった。
その後、何代か城主がかわり文禄4年(1595年)石川備前守光吉が城主となった。天正12年(1584年)3月小牧、長久手の合戦の際、豊臣秀吉は大阪より12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を布いた徳川家康と対戦した。元和4年(1618年)成瀬隼人正正成が城主となり以後成瀬家の子孫が継いだ。
明治4年9代目正肥のとき廃藩置県により廃城となり、天守と櫓を除く外は、ほとんど取り壊された。明治24年濃尾震災で天守の東南の付櫓と西北の付櫓、石落としの間などが壊れ、二階も大破した。明治28年城を修理するという条件で、旧犬山藩主正肥に譲り渡され、成瀬家の私有となり現在に至っている。国宝の城で、個人の所有というのは、この城が唯一のものである。
昭和2年11月20日、昭和天皇が登閣された。昭和27年3月29日規制改正にともない、国宝に再指定された。
全国で国宝に指定されている城は、犬山城のほか、姫路、松本、彦根の4つでその中でも、犬山城は最古である。
なお、この城は、伊勢湾台風などで破損がひどくなり、去る昭和36年4月から総工費約6千万円で、石垣のつみ直しと天守の解体修理が行われ、昭和40年3月20日往年の姿に復元された。
【案内板より】
●彦根城
Comments Offこの彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志を受けて彦根城の築城に着手した。
時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25Km2 (75,800余坪)周囲約4㎞(1里)高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
【案内板より】
●姫路城
Comments Off姫路城は今から約670年前、元弘3年(1333)、播磨の守護職、赤松円心(則村)が護良親王の北条討伐の令に応じて兵をあげ、姫山に砦を築き、円心の子貞範が正平元年(1346)に館を設けたのがその始まりと言われていましたが、その後の研究で、黒田官兵衛孝高の祖父と父である黒田重隆と職隆が主君小寺政職の許しを得て天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間に御着城の出城として築いたという説も見直されています。
そして天正8年(1580)約420年前、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、西国支配の根拠地として3層天守を築きました。
関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)約400年まえ、徳川家康の娘婿で、世に「西国の将軍」といわれた池田三左衛門輝政が、その豊かな財力と徳川幕府を背景に8年の歳月をかけ5層7階の大天守(現在の姿)を持つ大城郭を築きました。
更に10年後、本多忠政が、その子忠刻の奥方に千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、元和四年(1618)今日の全容を持つ姫路城が完成したそうです。